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山本荘(中世) 平安末期~室町期に見える荘園名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
山本荘(中世) 平安末期~南北朝期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
山本荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名越前国今北東郡のうち寛喜元年11月26日の鎌倉将軍袖判安堵状に「越前国山本庄」と見え,当荘ははじめ中級貴族坊城氏の家領であったが,源実朝追善のため有栖川清浄寿院が建立された際,伊勢国原御厨とともにその預所地頭職が寄進されて有栖川清浄寿院領となった(円覚寺文書)坊城女房の申請によるとあるが,実際は承久の乱後幕府がこれを保持していたのであろう弘安9年円覚寺が造営された際,造営終了後返付するという条件で円覚寺に寄進され,円覚寺領となったしかしこの間,有栖川清浄寿院の得分権は留保されていた(同前)鎌倉幕府が倒れ,建武新政府が成立すると,建武元年2月26日後醍醐天皇綸旨により円覚寺の当知行が承認されたが,湯浅二郎左衛門宗顕が恩賞として与えられたと称し山本荘を押領したため,円覚寺では雑訴決断所に訴え,同年3月24日「止彼押領,可沙汰居雑掌於庄家者」との裁定を得た(同前)建武の新政が崩壊し,南北朝動乱の幕あけともいうべき建武4年7月10日足利直義は山本荘内泉・船津両郷の地頭職を円覚寺長老に安堵し,翌日その遵行を守護斯波高経に命じているが,これは山本荘の東隣の河俣【こうばた】を根拠とする河俣左近大夫,同子息三村衛門次郎らの侵略に苦しんでいたからである(同前)このあと高経により山本荘は半済の地とされたが,高経・義将父子は幕府から追討をうけ,その追討の任にあたった畠山義深に対し,貞治5年11月14日幕府は半済分を返却し,一円円覚寺雑掌に打渡すよう命じているこの間有栖川清浄寿院が留保していた所職は青蓮院門跡に移ったらしく,至徳元年12月11日,僧録春屋妙葩の特別の斡旋により要脚3万匹で,すべての関係文書を副えて円覚寺に譲渡寄進することになり,円覚寺による山本荘の一円支配が完成した(同前)しかし,応永25年8月10日守護斯波義重は当荘の年貢のうち3,000疋を毎年石清水八幡宮に寄付するとしている(石清水文書6/大日古)一方在地では,元亨元年7月13日仏念・友吉が友貞名名主職を当荘の住人刑部に去渡しており(慈眼寺文書),同2年後5月29日山本荘船津郷貞永・包松両名名主職が雅楽康近に宛行われている(瓜生守邦家文書)荘内には泉郷土宮領(同前)織田剣神社領(剣神社文書)や竜生寺領(大野領寺社記并雑記)などの寺社領があった慶長国絵図には山本郷となり,高2,712石7斗7升江戸期の小黒町村・北野村・水落村・水落宮村は山本荘4か村と称され,現在の鯖江市小黒町・北野町・水落町にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
山本荘(中世) 平安末期~室町期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
山本荘(中世) 鎌倉期に見える荘園名河内国河内郡のうち枚岡社領「勘仲記」の弘安5年10月3日条(大成)に「平岡社々務止兼秀之相,社領藪崎・山本・荒本庄等社家令進止,修造并神事興行事可下知社司等申之由被仰下之」とあるのが初見叡尊が蒙古襲来の際に敵国降伏祈願のために大般若経を奉納した枚岡社の荒廃を関白鷹司兼平に嘆いたことにより,社務兼秀の相伝を止め,当荘以下を社家支配とし興隆を図るように関白より命じているなお,建長4年6月3日の藤原康高譲状写,正応5年正月日の藤原忠茂調度証文目録写には「大江御厨・山本・河俣両執当職」とあり,当荘は元来,大江御厨内にあったと思われ,水走氏が在地領主として執当職をもっていたことがわかるまた,至徳元年8月22日の藤原忠夏譲与目録写には「水走山本散在田畠弐町」「山本七ケ卿(郷)惣管領」などと見える(水走文書/枚岡市史3)現在の東大阪市横小路町・六万寺町・四条町・出雲井【いずもい】付近と思われる(府史)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
山本荘(中世) 鎌倉初期~南北朝期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」